清研時報

1988年9月号

浄化槽清掃業の取扱いについて 行政指導の問題点と今後の課題(Ⅳ)
  1. 浄化槽清掃業の許可と汚泥処理業の許可は車の両輪
  2. 覊束行為についての専門家の見解
  3. 浄化槽清掃業の許可の基準について
  4. 業界、今後の課題
浄化槽清掃業の許可と汚泥処理業の許可は車の両輪
  • 昭和53年、厚生省令第51号による省令改正で、浄化槽清掃業の許可と、その清掃にかかる汚泥の収集、運搬又は処分業の許可を分離するに至ったいきさつは、7月号でくわしく説明してもらいましたが、あれは、浄化槽を清掃する業者と、その清掃にかかる汚泥を収集し運搬する業者とを別々に切り離すことを目的としたものではなく、浄化槽の清掃に当たって引き抜いた汚泥を収集し運搬するためには、市町村長の自由裁量であるところの一般廃棄物処理業の許可を必要とすることに改めるとともに、その汚泥の処理が不適切に行われるおそれがあると判断したら、市町村長は浄化槽清掃業の許可をすべきではないことを明確にしようと狙ったものだということでしたね。
  • そうです。浄化槽清掃業の許可と浄化槽汚泥処理業の許可とは車の両輪で、2つそろわなければ、浄化槽の清掃の仕事はやれるものではありません。浄化槽汚泥処理業の許可なしに、浄化槽清掃業の許可だけで、浄化槽の清掃をせよということは、シェイクスピアの『ベニスの商人』で、血を流さずに肉を切れというようなものですよ。
  • その『ベニスの商人』の話は、前に一度お伺いしたことがありますが、恰好な話だと思いますので、改めて紹介してくれませんか。
  • ベニスにシャイロックという高利貸しが住んでいました。彼は商人たちに高利で金を貸して、巨万の富を積んでいました。シャイロックは冷酷な男で、貸金の支払いを厳しく迫るので、善良な人たちに憎まれていましたが、特にベニスの若い商人アントニオに憎まれていました。シャイロックの方でも同様に、 アントニオを嫌っていました。それは、アントニオが、困った人に金を貸してやっても、決して利子をとらなかったからです。 そんなわけで、この強欲な高利貸と、寛大な商人アントニオの間には、非常な敵意があったのです。
    ある日、アントニオは、親友のバッサニオから金を貸してくれと頼まれましたが、たまたま手許に友人に貸すだけの金を持ち合わせていませんでした。やむをえずシャイロックから借りて用立ててやったのですが、そのとき、アントニオは、シャイロックの云うがままに、もし期日に金を返済しなかった場合には、アントニオの身体のどこでもシャイロックの欲するところから、肉を1ポンド切り取って支払うという証文に署名していました。アントニオには、支払期日の来る前に、その金の数倍の価値のある荷を積んだ持ち船が帰ってくるので、返済できるという当てがあったのです。ところが、帰ってくる筈の船が帰ってこないため、返済することができなくなりました。シャイロックは、貸金の返済を求めて提訴しました。
    彼は証文を盾にとり、アントニオの身体から1ポンドの肉を切り取ることを要求しようとしました。事情を知ったバッサニオの愛人ポーシャは、法律顧問をしている親類のベラリオの助言を得て弁護士に変装して出廷しました。そして、シャイロックに提出させた証文を見て、「この証文の品は没収されるべきである。シャイロックは合法的に1ポンドの肉をアントニオの心臓に近いところから切り取る権利がある」と認めました。
    シャイロックが、長いナイフを研いで、じっとアントニオを見つめたとき、ポーシャは云いました。「待て、シャイロック、ほかに云うことがある。この証文には一滴の血もお前に与えるとは書いていない。文面は明らかに『肉1ポンド』とある。もし肉を切り取る際に、血を一滴たりとも流したなら、お前の土地も動産も法律によってベニス政府に没収されるだろう」と。
    血を流さずに1ポンドの肉を切り取ることは不可能でした。証文に名ざしてあるのは肉であって、血ではないという、ポーシャの賢い発見が、アントニオの命を救ったのです。シャイロックはついに1ポンドの肉を切り取ることが出来なかったばかりか、市民の命を奪おうと計ったかどによって処罰されることになりました。
    浄化槽の清掃も、これと同じです。浄化槽清掃業の許可を受けていても、その清掃にかかる汚泥を収集し、運搬するのに必要な一般廃棄物処理業の許可を受けていなければ、実際に浄化槽の清掃を行うことはできません。浄化槽から引き抜いた汚泥をその場に放置することは許されず、また、許可なしにその汚泥を処理することは出来ないからです。
  • ところが、汚泥の収集、運搬の仕事は、他の廃棄物処理法第7条の許可業者に委託すればよい、という意見もあるようですが……。
  • 汚泥の収集、運搬を業として行うことができる許可業者が、確実に、生活環境の保全上支障が生じないうちに、その汚泥を収集し、運搬するという保証があれば、そういう意見も成り立つでしょう。問題は、他の許可業者がそれを引き受けるという証拠があるかどうか、仮にその証拠があったとしても、汚泥の処理について不正又は不誠実な行為をするおそれはないかということです。
  • そう云われれば、昭和62年5月13日付環整第78号で、厚生省の環境整備課長は、山口県環境保健部長からの照会に対して、浄化槽清掃業の許可申請者が、浄化槽の清掃にかかる汚泥の収集、運搬を、廃棄物処理法第7条第1項の規定に基づく許可業者に委託していたとしても、その委託契約書の内容を調べた上で、汚泥が不正又は不誠実に処理されるおそれがあると判断したら、不許可処分として差し支えない、と回答していましたね。
  • 既存の許可業者で、新規業者に許可が出ることを歓迎するものはいませんよ。仮に居たとしても、既存業者には既存業者なりに、その日その日の仕事の段取りがあります。新規業者の連絡を待って、いちいち対応するゆとりなどあろう筈はありません。汚泥の処理は他の許可業者に委託すればよいなどというのは、実務を知らない連中の云うことで、そういうのを机上の空論といいます。
覊束行為についての専門家の見解
  • 業界では、厚生省に対して、浄化槽清掃業の許可は覊束裁量だという解釈を清掃法当時の自由裁量という解釈に戻してもらいたいと要望している団体がありますが、この要望は叶えられる見込みがあるのでしょうか。
  • 清掃法当時に、最高裁判所が、神奈川県平塚市で発生した訴訟事件で、し尿浄化槽の清掃及び槽内汚物の取扱業の許可を与えるかどうかは、市町村が法の目的と当該市町村の処理計画とに照らし、その責務である汚物処理の事務を円滑完全に遂行するのに必要適切であるかどうかという観点から、これを決すべきものであり、その意味において、市町村長の自由裁量に委ねられているものと解するのが相当であると判示したことは、前にも紹介したとおりです。廃棄物処理法に改められてからも、し尿浄化槽清掃業者は、清掃法当時と同じように、し尿浄化槽の清掃だけでなく、その清掃にかかる汚泥の収集、運搬又は処分を併せて行っていたのですから、その許可についての解釈は、最高裁判所の前述の判例に従うべきであったことは、理の当然と云えましょう。
    ところが、昭和53年8月10日、厚生省令第51号による省令改正で、廃棄物処理法施行規則第2条第2号が削除されてからは、法第9条第1項の許可では、し尿浄化槽の清掃だけしか行うことが出来なくなりました。その清掃にかかる汚泥の収集、運搬又は処分を業として行うには、別に、法第7条第1項の許可を要することとなったのです。現在の浄化槽法でも、法第35条第1項の許可だけでは浄化槽の清掃だけしか行うことが出来ません。清掃法当時とは業務内容が変わっているわけです。ですから、清掃法当時の解釈と同じ解釈に戻せというには、無理があります。
  • それじゃ、どうしても覊束裁量という解釈は変えられないわけですか。
  • そう短絡的に片付けてはいけません。第一、覊束裁量とは、どういう行為をいうのか、自由裁量とは、どういう行為をいうのか、その肝心なことが理解されないまま、むつかしい法律用語が安易に使われているきらいがありますね。
    本誌の創刊号で、覊束裁量とか、自由裁量とは、どんな行政行為をいうのかについて、法律専門家の見解を紹介しておきましたが、その後もこの問題についての質問が絶えませんので、改めて説明しておきましょう。
    行政法の権威として知られた田中二郎博士は、その著書≪新版・行政法≫上巻・全訂第2版(弘文堂発行)の中で、覊束行為と裁量行為について、
    「行政行為は、すべて法に基づき法に従って行われなければならないが、その法による覊束の程度・態様は、場合によってまちまちである。法がその要件・内容について、ほとんど完全に行政を覊束し、行政行為は、ただ、法の具体化又は執行に止まる場合があり、また、法が、公益目的の実現をめざす行政の特殊性に鑑み、行政庁に対し、行政行為をするかどうか、何時どういう行政行為をするか等について、自由裁量の余地を認めており、行政庁が、その裁量によって行政行為をする場合もある。前者を覊束行為といい、後者を広く裁量行為と呼ぶ。ただ、覊束行為といい裁量行為といっても、その法に対する関係において、両者の間に本質的な差異があるわけではなく、現実には、いずれの場合においても、ある程度に法の覊束が存するとともに、また、ある程度に裁量の余地があるのであって、その間には単に程度の差異があるにすぎない。」
    と、説明しています。
  • そうすると、廃棄物処理法が施行された直後に、厚生省環境整備課の全員が協力して統一見解を発表した≪廃棄物処理法の解説≫の初版150頁で、し尿浄化槽清掃業について、「本条の許可は、覊束行為(法規裁量)に属する行政処分である」としながら、続けて、「行政行為は、すべて法規に基づき法規にしたがってなされるのであるが、その法規による覊束の程度・態様は画一的ではない。一般に、自由裁量行為は、行政庁に一定範囲の自由裁量を認めてなされる行為であり、覊束裁量行為は、行政庁に裁量の余地のない行為であるとされているが、両者は本質的に異なるものではなく、いずれも、ある程度に法規の覊束を受け、反面、ある程度の裁量が認められるのであって、両者の差異は究極的には程度の差であるというのが通説である。」と、述べていたのは、その田中二郎博士の見解に従ったものですね。
  • おそらく、そうでしょうね。しかし、その解釈は、田中博士独自のものではありません。ほとんどの学者が同じような見解を示しています。ただ、学者の話は、どうもむずかしすぎるという人が少なくないようですから、本誌の創刊号でも、法学書院から発行されている≪やさしい行政法≫の解説を引用して説明しておきましたが、この本は、元衆議院地方行政委員会主任調査員・崎川謙三氏と、元参議院法務委員会主任調査員・小島和夫氏、それに参議院法制局の各委員会の担当課長を歴任した松沢浩一氏の3氏が、もと『月刊行政実務』に、≪わかりやすい行政法≫と題して、約4年間、分担執筆して連載したものを、改訂増補したものです。その≪やさしい行政法≫の解説を引用して説明しておいた部分を、再録することにしましょう。
    「たとえば、道路交通法において、自動車の運転免許は18歳未満の者には与えないとか、公安委員会が行う運転免許試験に合格した者に対して免許を与えるとか、免許は運転免許証を交付して行うというように定められておれば、自動車の運転免許という行政行為を行う場合には、免許を申請した者が18歳未満であるかどうか、試験に合格しているかどうかを判断するだけであって、その要件は、はっきりしています。公安委員会が免許を与えるについて、申請者の適格性を考慮したり、妥当性の有無について考えたりする余地はありません。法令の定める要件をみたしておれば、ほとんど機械的に免許を与えることができるといってもよいでしょう。
    このような場合には、行政庁は、要件に該当するかどうかをハッキリさせるために、法令に定める要件を解釈する必要もなければ、法令の意味を考え、判断する必要もありません。18歳未満の者に運転免許を与える余地は全くありませんし、免許証の交付以外の方法によって、公安委員会が免許を与えるようなことも全くありません。もしも、18歳未満の者に免許を与えたり、免許証の交付以外の方法で免許を与えたとすれば、それは違法な行政行為となります。こういう種類の行政行為を覊束行為と呼んでいます。
    ところが、法令の中には、誰が読んでも、一目瞭然で、同じ意味に解釈されるようにつくられているものばかりではありません。たとえば、道路法によると、道路に雪よけとかアーケードのような施設を作るため、道路占用の許可を受けた者に対して、道路管理者―その道路が市道であれば市長は、『道路の構造又は交通に著しい支障が生じた場合』には、その施設の改築または移転などをすることを命じることができるものとされていますが、ここにいう『著しい支障』というのは、どんな状態を指すのかというと、おそらく誰でも、一言のもとに説明することは困難でしょう。単に『道路の構造又は交通に著しい支障が生じた場合』とだけしか定めてありませんから、どんな場合が法文にいう支障を生じた場合であるかは、法文の上では不明確であり、どういう場合に改築命令を行い、また、どんな場合に移転命令を行うこととしているのか、その要件や行為の内容は、すべて行政庁の判断に委ねているわけです。
    このように、法令の意味内容が明確でないものを、行政庁が確定的に決めることを、行政庁の裁量と呼んでいます。行政庁の裁量を認めたものには、旅券法や、温泉法などもあります。旅券法には、『外務大臣において、著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行うおそれがあると認めるに足りる相当の理由がある者』に対しては、旅券を発給しないことができる旨の規定があり、『日本国の利益又は公安を害する行為』とは、どのような行為であるかについては、行政庁である外務大臣の判断にまかせています。また、温泉法でも、『都道府県知事は、温泉のゆう出量、温度若しくは成分に影響を及ぼし、その他公益を害するおそれがあるとき』のほかは、温泉をゆう出させる目的で土地を掘さくすることの許可を与えなければならないと定めており、ここでも、『公益を害するおそれ』とは何であるかの認定は、知事の判断にまかせています。」
    以上が、本誌の創刊号で紹介した≪やさしい行政法≫の解説のあらましです。
    なお、≪やさしい行政法≫でも、覊束裁量と自由裁量の区別について、
    「現行憲法のもとでは、法治主義の原則は厳格に守られなければならないのであって、法令の拘束を受けずに『自由』に判断するという意味での自由裁量は、許されるべきものではない。逆にまた、覊束裁量と考えられるような、行為の要件が法定されている場合であっても、行政庁に裁量権が認められると判示した最高裁判所の判決(昭和39年6月4日)もある。これらの点から、覊束裁量と自由裁量との区別は、現在では、あまり意味のあるものとは考えられていない。」と、述べています。
  • その昭和39年6月4日の最高裁判所の判決というのは、どんな内容ですか。
  • これは、広島県公安委員会が、タクシーの運転手に対して行った運転免許取消処分が、適法であったかどうかについて争われた事件で、最高裁判所が、広島県公安委員会がとった行為を適法と認めて、判決理由で、

    自動車運転手の交通取締法規違反の行為が、道路交通取締法9条5項、同法施行令59条、昭和28年総理府令75号8条1項所定の運転免許取消事由に該当するかどうかの判断は、公安委員会の純然たる自由裁量に委かされたものではなく、右規定の趣旨にそう一定の客観的標準に照らして決せらるべきいわゆる法規裁量に属するものというべきであるが、元来運転免許取消等の処分は道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図ることを目的とする行政行為であるから、これを行うについては、公安委員会は何が右規定の趣旨とするところに適合するかを各事案ごとにその具体的事実関係に照らして判断することを要し、この限度において公安委員会には裁量権が認められているものと解するのが相当である。

    と、判示したものです。
  • なるほど、法規裁量(覊束裁量)に属するものであっても、行政庁は、各事案ごとに、具体的な事実関係に照らして判断する必要があり、その限度において裁量権が認められているものと解釈すべきだと、というわけですね。
  • そうです。
  • 結局、覊束裁量という解釈を、自由裁量という解釈に戻してくれなどと騒ぐ必要はない、ということですか。
  • そんなことで騒ぐよりも、浄化槽清掃業の許可をするかどうかは、申請者が許可の基準の1つ1つに適合しているかどうかによって決まるものだという、当り前のことに気付くべきでしょうね。
浄化槽清掃業の許可の基準について
  • 浄化槽清掃業の許可の基準を定めた浄化槽法第36条には、「前条第1項の許可の申請が次の各号に適合していると認めるときでなければ、同項の許可をしてはならない」と規定しています。これは、条文が示すとおり、許可をしてはならない場合を法定したものです。
    先ず、申請者は、第1号の規定により、厚生省令で定める技術上の基準に適合するものでなければなりません。厚生省令では、規則第11条に第1号から第4号までの規定を設けています。この中で、第1号から第3号までに定める器具のすべてを有しているかどうかの判断は、何もむつかしいことはありません。問題は、第4号の『浄化槽の清掃に関する専門的知識、技能及び相当の経験を有していること』という条件に適合しているかどうかの判断です。
    以前にも紹介しましたように、昭和56年の臼杵市の不許可処分取消請求事件や、昭和58年の岐阜市の不許可処分取消請求事件では、いずれも、申請者の経歴を調べて、浄化槽の清掃についての『相当の実務経験』がなかったことがわかったので、それを理由の1つとして不許可処分にしたのですが、その処分に違法はなかったとして、行政側が勝訴の判決を受けています。
    (財)日本環境整備教育センターが行った講習会を受講して修了証書をもらっている者の中には、受講申し込みの際に提出した関係書類に、経歴について虚偽の申告をしている者もいますが、教育センターでは、いちいちその真偽を確かめるようなことまではしていません。従って、市町村では、申請者について、この点をよく調査する必要があるわけです。次に、申請者は、第2号に定めるイからヌまでのいずれにも該当しないものでなければなりません。ところが、このうち、ホの規定を除けば、他はすべて、2年とか、30日とか、事業の停止を命ぜられた期間とかが決められていて、市町村長がその期間を変更することは認められていません。浄化槽法又は浄化槽法に基づく処分に違反して罰金以上の刑に処せられ、その執行を終わって、まだ1年半しか経過していないが、改悛の情が顕著であるからよかろうというわけには参りません。法人で役員が数人いるから、その中の1人ぐらいイからリまでの1つに該当する者がいてもいいじゃないかというわけにも参りません。つまり、ホを除く外の規定は、すべて市町村長に裁量の余地は認められていないわけです。
    しかし、ホの規定は違います。これは、改正前の廃棄物処理法第9条第2項第2号で準用していた同法第7条第2項第4号ハの規定と全く同文の規定です。この条文では、『その業務に関し不正又は不誠実な行為』とは、どういう行為を指すのかということを明らかにしていません。市町村によって事情が異なっていますから、何が『その業務に関し不正又は不誠実な行為』に当たるかはまちまちで、いちがいに、これだと決めてかかれないわけです。ですから、申請者が、その業務に関して不正又は不誠実な行為をするおそれがあるかどうかは、それぞれの市町村の実情のもとで、市町村長が判断して決めるものとされているわけです。
  • このホの規定は、≪やさしい行政法≫の解説の中にあった道路法とか、旅券法、温泉法などに定められている条文と同じように、意味内容が明確でない表現を使って、許可するか許可しないかの判断を市町村長に任せているわけですから、裁量行為であることがはっきりしていますね。
  • それに、昭和62年5月13日付環整第78号を見ればわかるように、厚生省環境整備課長は、山口県環境保健部長からの照会に対して回答した中で、市町村長は、浄化槽法第35条第3項及び厚生省関係浄化槽法施行規則第10条第2項第5号に基づいて、申請者に、浄化槽の清掃にかかる汚泥が合法的に処理されることを証明する書類の提出を求めることができること、申請書にその書類が添付されていなければ、許可申請を受理しなくてもよいこと、その書類が添付されている場合でも、内容を検討して、汚泥の処理が不正又は不誠実に行われるおそれがあると判断したときには、法第36条第2号ホに該当するものとして、不許可処分として差し支えないことを明らかにしました。これは、申請者が、許可の要件を備えたものであるか否かの判断は、市町村長の裁量に任されたものであることを認めたものといえます。その意味で、この環境整備課長通知は、大いに意義があるわけです。
  • そういえば、本誌の創刊号―これは、昭和58年10月、浄化槽法が成立したばかりで、まだ政令も省令もできていないときに発行されたものですが、その16頁のところで、
    「浄化槽法では、清掃業の許可を受けようとする者は、厚生省令で定める申請書と添付書類を市町村長に提出しなければならないと定めていますので、その許可申請書に、申請者が一般廃棄物処理業の許可を受けている場合は、その許可証の写しを添付しなければならないこととし、申請者が一般廃棄物処理業の許可を受けていない場合は、その許可を受けている者が、浄化槽の清掃にかかる汚泥の収集、運搬の作業を引き受けることを約定したことを示す書面を添付しなければならないこととし、その旨を厚生省令で規定しておくべきでしょう。そうすれば、省令を改正しない限り、浄化槽の清掃作業と清掃にかかる汚泥の収集、運搬作業との一体性は確保され、また、許可申請書に添付する書類がそろっていなければ、書類不備ということで突き返されることになります。」
    と、説明しておられましたね。
  • ええ、覚えています。それだけでなく、本誌の第2号でも紹介しておきましたが、昭和58年10月26日付で、林義郎厚生大臣に提出した『浄化槽法に基づく省令等に関する要望書』の中でも、そのことを要望しておきました。
    ところが、山口県環境保健部長は、更に一歩踏みこんで、許可申請書に添付する書類がそろっていても、その内容を調べて、汚泥の処理が不適切に行われるおそれがあると判断したら、法第36条第2号ホに該当するものとして、不許可処分にしてよいか、とただしたのです。これに対して、環境整備課長は、その場合は不許可処分にして差し支えない、と、はっきり回答したのですから、浄化槽清掃業の新規許可問題に頭を悩ませていた市町村の担当者たちは、きっと、ホッとしたことだろうと思いますよ。
  • そうですね。覊束裁量か自由裁量かなどと、むつかしい法律用語にふりまわされずに、その課長通知に基づいて処理すればよくなりましたからね。
業界、今後の課題
  • ところで、浄化槽法の規定によれば、浄化槽管理者は、厚生省令で定めるところにより、毎年1回、厚生省令で定める場合にあっては、厚生省令で定める回数、浄化槽の保守点検及び浄化槽の清掃をしなければならない、と定めていますが、一般的には、管理者が自分で厚生省令で定める技術上の基準に従って浄化槽の保守点検や浄化槽の清掃を行うことはできません。従って、毎年1回、厚生省令で定める場合にあっては、厚生省令で定める回数、浄化槽の保守点検及び浄化槽の清掃をしなければならない義務を負う浄化槽管理者としては、その義務を果すためには、資格をもった業者に委託して、浄化槽の保守点検または浄化槽の清掃をしなければならないものである筈なのに、法律では、資格をもった業者に『委託することができる』という条文になっています。
    もっとも、法第12条第2項に、

    都道府県知事は、浄化槽の保守点検の技術上の基準又は浄化槽の清掃の技術上の基準に従って浄化槽の保守点検又は浄化槽の清掃が行われていないと認めるときは、当該浄化槽管理者に対し、浄化槽の保守点検又は浄化槽の清掃について必要な改善措置を命じ、又は当該浄化槽管理者に対し、10日以内の期間を定めて当該浄化槽の使用の停止を命ずることができる

    と定められていて、その命令に違反した者は、法第60条の規定により、6月以下の懲役又は30万円以下の罰金に処せられることになってはいますが、保健所は何処も人手不足で、不心得な管理者を発見することは容易でなく、この条文は有名無実となっています。それというのも、自分で実施できない管理者に対して、専門業者への委託を義務づけていないからです。
  • その点については、その当時、浄化槽は私有財産で、管理するのは管理者の責任であるから、保守点検や清掃を専門業者に委託することを義務づけることは、憲法に触れるから出来ないという法制局の意見があって、そうなったのだという話でしたね。
  • そうですね。設備産業新聞が、昭和58年6月7日から、『浄化槽法について』と題して、14回にわけて連載したうち、5回めの法第3章についての記事の中で、その間の事情を、「保守点検・清掃の専門業者への委託契約義務付けも、大きな問題でした。
    自由契約では、管理者の中に契約しない者も出てきて、保守点検、清掃が満足に行われない可能性がある、というのが委託契約義務付けの理由です。現実に、費用がかかるために、保守点検、清掃の契約を行わない管理者、当初は契約していたが途中で契約を打ち切る管理者がかなりいますから、浄化槽管理者には、委託契約を義務付けなければ効果があがらないという意見も強くあります。しかし、浄化槽は私有財産であり、その管理は管理者の責任となっている。専門業者への契約を義務付けることは、憲法に触れ、困難であるという法制局の意見もあって、これを受け入れられませんでした」と述べていましたが、法制局の意見というのは、多分、衆議院法制局第5部で、浄化槽法案を担当していた人の意見だったのでしょう。
    しかし、これは、おかしな意見ですよ。法第10条第2項の規定を見てごらんなさい。政令で定める規模の浄化槽、これは、政令で、処理対象人員が501人以上の浄化槽と定められていますが、501人槽以上の浄化槽の管理者は、当該浄化槽の保守点検及び清掃に関する技術上の業務を担当させるため、厚生省令で定める資格を有する技術管理者を置かなければならない、と定めているでしょう。しかも、法第62条第2号の規定により、法第10条第2項の規定に違反して技術管理者を置かなかった者は、10万円以下の罰金に処せられることになっています。自ら浄化槽法の規定に基づく技術管理者として管理することが出来ない場合は、浄化槽の保守点検及び清掃の業務を担当させるため、厚生省令で定める資格をもった技術管理者を置くことを義務づけても、憲法違反にはならないからこそ、このように定めているのではありませんか。501人槽以上の浄化槽の場合は憲法違反にならないで、500人槽までの浄化槽の場合は憲法違反になるという理屈は通用しませんよ。
  • そうですね。500人槽までの浄化槽が私有財産だからというのでしたら、501人槽以上の浄化槽だって私有財産ですからね。
  • 憲法違反の話が出ましたので、慎重を期するため、憲法学者として知られる鵜飼信成教授の見解を見てみましょう。
    鵜飼教授は、≪要説・憲法≫の中で、
    • 基本的人権は絶対的であって、一般的には、公共の福祉を理由として制限され得ないものであるが、しかし、あらゆる基本的人権に、このような絶対性を与えるということは、それが社会的にさまざまの弊害を生み出した事態にかんがみて、正当とはいえない。ここにおいて、日本国憲法は、このように歴史的に問題をはらんでいるいくつかの具体的な基本権をあげて、これらに対しては個別的に、その行使に制限を附することを許しているのである。そのような制限を附けることが明示的に認められているのは、次の3つである。その1は居住、移転および職業選択の自由であり、その2は勤労条件を定める自由であり、その3は財産権である。
    • 日本国憲法は、右の3つの基本権に関しては、それが公共の福祉のためには法律を以て制限することができるということを明示した。すなわち、これら3つの経済的基本権に関する限り、それが法律によって制限されることについては、憲法上なんらの問題もないのである。
    • 日本国憲法第29条は、まず財産権の不可侵を保障しているが、続いて、財産権の内容は、法律で定めるといっており、そうしてこの場合、その法律は公共の福祉に適合するように作られるから、公共の福祉のため必要があれば、法律で財産権を制限することができるわけである。
    • 憲法にいう財産権という概念は、所有権という概念より、広い意味をもっている。すなわち、それは民法の規定している所有権の外に、債権はもちろん、営業権、特許権、漁業権、あるいは水利権のような公法的な権利をも含んでいる。
    と、述べています。
    日本国憲法が、公共の福祉のために必要があれば、法律で財産権を制限することを認めておればこそ、501人槽以上の浄化槽の管理者に対して、自ら浄化槽法の規定に基づく技術管理者として管理することが出来ない場合は、浄化槽の保守点検及び清掃に関する技術上の業務を担当させるため、厚生省令で定める資格をもった技術管理者を置くことを義務づけ、この規定に違反して技術管理者を置かなかった者は、10万円以下の罰金に処するという罰則を設けることが出来ているわけです。
  • そうですね。憲法違反になるのでしたら、そんな規定を設けることは出来ませんね。
  • 厚生省調べによれば、昭和61年3月末現在で、501人槽以上の浄化槽は、総設置基数5,541,517基のうち、13,090基です。残り5,528,427基は500人槽までの浄化槽です。全体の僅か0.236%の浄化槽の管理者に対して、その自由を制限しても、残り99.764%の浄化槽の管理者に対して、その自由を制限しなければ、管理不十分な浄化槽から排出される放流水によって、公共の水域は汚染され、生活環境が悪化することくらい、誰にだって理解できる筈です。
  • 浄化槽法第10条第3項は、「委託することができる」というのを、「委託しなければならない。ただし、自ら厚生省令で定めるところにより浄化槽の保守点検及び清掃を行うものについては、この限りではない」と改めるべきですね。
  • そうすべきです。そして、それだけでなく、その規定に違反して、委託しなかった者については、やはり、法第62条の罰則を適用して、10万円以下の罰金に処するように改めなければなりますまい。
  • それが、今後の課題ですね。
  • 浄化槽清掃業の許可申請者に対して、当該市町村で許可を受けている浄化槽汚泥処理業者が、その清掃にかかる汚泥の処理を引き受けることを証する書面の提出を義務づけるのと同じように、浄化槽の保守点検を業とする者の登録についても、営業区域が所在する市町村で許可を受けている浄化槽清掃業者との業務に関する提携を証する書面の提出を義務づけるのは当然のことです。それを義務づけていないところでは、急いで改める必要がありましょう。7条、11条検査についても、罰則を設けなければ実効を挙げることが出来ないのは周知の事実です。放置していては、決して良くなることはありません。